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ひかるKunのお父さんの「ちょうどのおとうふ」が
できるまでの奮闘記がはじまります(^o^)丿
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第1話
私は大学を卒業し、赴任地アラブ首長国連邦ドバイで、
『砂漠の藻屑(もくず)』となっても
「日本国家・国民のために尽したい!」と
高い志(?)を持って商社勤めを始めましたが
しかし、父の死去等もあり
やむなく家業の笠島豆富店(3代目)を継ぐ事になりました。
福井に戻り活躍するフィールドは小さくなりましたが
本当に自分の作りたい商品は何なのか!と真面目に考える自分と、
一歩外へ出ると競争社会の中で、勝った・
負けたと
一喜一憂し流されていく、
もうひとりの自分との間で
長い間葛藤してきました。(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第2話
そんな中、
平成11年4月突然ひかるが急性骨髄性白血病で発病。
原因は骨髄異形成症候群で難病との事。
もともとひかるはダウン症児で、先輩の医者からは
「ダウン症児は一瞬に死ぬ時があるから覚悟して育てろ」と
言われていたので、覚悟はしていたものの、
来るべきものが来たかと私も家内も動揺しました。
しかし1年間の看病生活の中で、ひかるの生死を見ていて思いました。
自分は知らない間に、随分損得で動くいやな人間になっていたなあ。と
今まで知らない間に目の前のことに流され生きていたことを
強く反省させられました。
同時に『いつか社会福祉に貢献したい』という想いに対して
躊躇していた自分の背中を、ひかるの生死が
「お父さん!がんばれ!!」と後押ししてくれたような気がしました。
(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第3話
「失敗してもいいから、本当に自分が納得する商品を作っていこう」と決心。
平成11年の暮れ、当時小6の長女、小5の長男に
「お父さん、小さなお豆腐( “ちょうどのおとうふ”
の名前は
出来ていなかった頃) を作ろうと決めた。 一生懸命ガンバルけれど
お金がいっぱいかかるから、失敗したらゴメンネ。
この家は売らなきゃならないけど、
その時はまた橋の下からでもガンバルから!!」
翌日、私の母は言っていました。
母の側で長男は一晩「橋の下で暮らさなきゃならない」と
泣いていたそうです。
軽い知的障害を持った長男には、少し酷だったかもしれもせん。
そして翌平成12年4月をもって、祖父が創業以来75年続けてきた
今までの豆腐屋の業態に幕を引き、1ヶ月かけて工場を改造し、
6月から新生「笠島豆富店」として “ちょうどのおとうふ”
を作り始めました。
(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第4話
私と機械をいじらしたら天才の西君、
現在ゆば部門担当の川崎さん (ゆば細工のかわさき
)が商品開発。
対象は日本全国なので、通信網の整備を私たちグループのビル・ゲイツ
こと大艸君(おおくさ/本業は不動産業)が担当。
家内はひかるの看病で病院にいるため
家内の友達に商品作りのテストを補助してもらい
小さなお豆腐作りの研究が始まりました。
ひかるの看病中「一口サイズのお豆腐があったら、
制限された食事の患者さんや学校の子供達に喜んでもらえるのでは?」
と小さなお豆腐作りを始めたのですが
小さなお豆腐を作る原型がなく、 また教わる人もいないため
手探り状態の悪戦苦闘の6ヶ月間が続きました。 (次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第5話
私を支えてくれる仲間たちには
各自の仕事が終ると、私の工場に集まり
毎日夜中まで、小さなお豆腐の試作作りを手伝ってくれました。
雪の降る1月。底冷えのする寒い工場でテストが続くと
グループ最年長の川崎さんは高熱を出し
それでも点滴を打ちながらテストを黙々と続けてくれました。
そしてテストの中でどうしても必要な機械が分かり
メーカーにお値段を聞いてみるととても手の出せない金額。
どうしようかと悩んでいると
噂で富山の立山にある機械の廃棄場に
その機械と同じものを見た人がいると聞き
天才・西君と雪をかき分け、探しまわりました。
また“ちょうどのおとうふ”のグラム数が決まらず
包装機が作れないため、アイロンでフイルムを接着させるため
気がつけば仲間たちの手は火傷だらけ。
商品をひとつ作る大変さを痛感
そして何も言わず黙々と手伝ってくれる仲間たちの姿に
ただただ涙があふれるばかりです。(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第6話
また資金担当、S信用金庫・田中君は
「笠島さんはとてつもない理念を持った人なんだ!」と首覚悟で奔走。
S急便・永善(えいぜん)君、
『誰も知らない福井県』から全国区の商品に育てると
輸送中の破損を避けるために、毎夜 “ちょうどのおとうふ”を
届ける末端のドライバーに「取扱い注意」のFAXを流し。
包材担当の佐孝さん、
「患者さん、子供達に食べてもらうために事故は絶対許されない!
どうしたら圧に耐えられ、なおかつ力のない人にも フイルムが
取り易く出来るか?」と考えていたら不眠症に陥り。
遂に潰瘍が悪化して、胃を半分切ってしまいました。(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第7話
“ちょうどのおとうふ”が完成するまでには
数え切れない泣き・笑いのドラマがありました。
ひょうきんな天才・西君は
「僕たちのプロジェクトXやね!
いつか落ち着いたら、本にしなあかんね!(福井弁)」
といつも言ってます。
素晴らしい仲間たちの協力により、商品も名前も決まり
平成12年7月、初めて福井市の学校給食で採用され
約2万個の
“ちょうどのおとうふ”が出荷された時は
悦びというよりは、その間の大変なことが沢山あったため
倒れそうな思いでした。
後で聞けば、豆腐は「生もの」と言うことで学校給食では
絶対に冷奴は使わないそうで、“ちょうどのおとうふ”は
学校給食の歴史を変えたそうです。(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第8話
その後も、不思議と思うくらい沢山のご縁の中で
奇跡的にひかるの命を救っていただき
また軽度発達障害の長男は
「僕、学校卒業したら、 お父さんと“ちょうどのおとうふ”
を
作って世界へ広げるよ!」と言い出し。
担任の先生曰く
「とてつもなく心も身体も勉強も成長しました。
お父さんの仕事を見ていて、この子の心に何か芽生えたのでしょう。
これが生きた本当の教育です!」との事。
ひかるが入院中は
弟は死んじゃうんじゃないか?と泣いていたお兄ちゃんは
弟の病気をキッカケに出来た “ちょうどのおとうふ”
によって
『平成のミラクル男』(学校で言われるそうです。家内とは
『平成のフォレストガンプ』と言っていますが) に変わってしまった事も
これまた不思議の一言です。(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第9話
とても言葉では言い現せないストーリーの中で
生まれた “ちょうどのおとうふ”
は
『美味しくて、便利なお豆腐!』の一言に支えられ、
発売以来この約2年間で26都府県の 病院・福祉施設・学校・
保育園・幼稚園・自衛隊施設でご利用頂ける商品となりました。
<平成13年12月現在>
(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第10話
障害を持つ二人の子供の親として、何らかの形で社会福祉に
お役に立てればと漠然と考えていましたが、
”ちょうどのおとうふ”に関わる関係者の皆様からは
『将来は“ちょうどのおとうふ”
の工場を障害のある方々の
リハビリを兼ねた、働く喜びの持てる場にしたら!』と
アドバイスを頂きました。
小さいながらも“ちょうどのおとうふ”
の工場が全国に出来れば
障害のある子供たちの就労拡大の場になり、
また自分たちが作った商品をたくさんの人達に喜んで食べて頂ければ
かけがえのない働く(生きる)悦びになっていくものと思います。
ひかるの白血病がきっかけで誕生した“ちょうどのおとうふ”
が
そんな形で、少しでも社会福祉に貢献出来るのでしたら、
残りの人生全て賭けても 本望と考えています。(次回へ続く)
★ 連載 ★
短編『出発“ちょうどのおとうふ”』第11話
今後も多くの方々のご賛同をいただき
全国に工場を建設したいと考えていますが、
ある政治家の方からは
「今の雇用・失業問題は健常者が対象で、
あなたのやろうとしている事は今まで統計にも
なかなか上がらなかった世界。
ひとつのインフラ整備に繋がり、たくさんの人たちに喜んでもらえます。
何らかの形で協力しますから頑張って下さい」との事。
また関係する人達からは、工場名は『豆腐業界のSony』と言うことで
“Tony”にしようとの事。
〜ご存知ですか?
Sonyの創業者故井深氏にも知的障害のお子さんがおられ
障害者のため活躍されていた事〜。
そのためにも、各施設の栄養士様には、
“ちょうどのおとうふ”
の商品自体はもちろんですが、
私共の考えております熱い想いも知って頂き、
ご検討頂けましたら幸いと存じます。
皆様のご支援・ご声援を頂き何処まで出来るか分りませんが、
仲間たちと護送船団で頑張って行きたいと思っています。
代表:笠島 進一
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