【個食用プチ豆腐】学校給食・病院給食・保育園給食・幼稚園給食・自衛隊給食の献立♪




 
ひかるKunって?
誕生秘話
短編“出発 ちょうどのおとうふ”
お楽しみ♪



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短篇『出発“ちょうどのおとうふ”』 子供の病気。それが始まりでした。

  私は、大学を卒業し赴任地アラブ首長国連邦ドバイで、 「砂漠の藻屑」となっても「日本国家・国民のために尽したい」と高い志(?)を持って商社勤めを始めました。 しかし、父の死去等もありやむなく家業の笠島豆富店(3代目)を継ぐ事になりました。 

 活躍するフィールドは小さくなりましたが、 本当に自分の作りたい商品は何なのか!と真面目に考える自分と、一歩外へ出ると競争社会の中で勝った・ 負けたと一喜一憂し流されていく、 もうひとりの自分との間で長い間葛藤してきました。

 そんな中、平成11年4月突然次男が急性骨髄性白血病で発病。 原因は骨髄異形成症候群で難病との事。もともとこの子はダウン症児で、友達の医者からは、 「ダウン症児は一瞬に死ぬ時があるから覚悟して育てろ」と言われていたので、覚悟はしていたものの、 来るべきものが来たかと私も家内も動揺しました。しかし1年間の看病生活の中で、子供の生死を見ていて思いました。 自分は知らない間に、随分損得で動くいやな人間になっていたなあ。」と。今まで目の前のことに流され生きていたことを 強く反省させられました。 同時に『いつか社会福祉に貢献したい』という想いに対し躊躇していた自分の背中を、 我が子の生死が「頑張れ!!」と後押ししてくれたような気がしました。

 「失敗してもいいから、本当に自分が納得する商品を作っていこう」と決心。 平成11年の暮れ、当時、小6の長女、小5の長男に「お父さん、小さなおとうふ( “ちょうどのおとうふ” の名前は出来ていなかった頃です) を作ろうと決めた。 一生懸命ガンバルけれどお金がいっぱいかかるから、失敗したらゴメンネ。 この家は売らなきゃならないけど、その時はまた橋の下からでもガンバルから。」

 翌日、私の母は言っていました。母の側で長男は一晩「橋の下で暮らさなきゃならない」と泣いていたそうです。 (軽い知的障害を持った長男には少し酷だったかもしれもせん)

 そして、翌平成12年4月をもって75年続けてきた今までのとうふ屋の業態に幕を引きました。 そして、1ヶ月かけて工場を改造し、6月から新生「笠島豆富店」として “ちょうどのおとうふ” を作り始めました。

  私と、機械をいじらしたら天才の西君、現在ゆば部門担当の川崎さん ゆば細工のかわさき )が商品開発。対象は日本全国なので、通信処理等を私たちグループの ビル・ゲイツこと大艸君(おおくさ/本業は不動産業)が担当。 家内は病院で看病していたため、家内の友達に商品作りのテストを 補助してもらい、小さなおとうふ作りの研究が始まりました。

 看病中「一口サイズのおとうふがあったら、制限された食事の患者さんや学校の子供達に 喜んでもらえるのでは?」と小さなおとうふ作りを始めたのですが、小さなおとうふを作る原型がなく、 また教わる人もいないため 手探り状態の悪戦苦闘の6ヶ月間でした。

 仲間たちには、仕事が終ってから毎日夜中まで手伝ってもらい、 雪の降る1月、寒い工場でテストが続くと、 グループ最年長(48歳)の川崎さんが高熱を出し、それでも点滴を打ちながらテストを続けました。また製造過程でどうしても必要な機械が出来、 新品はとても高くて手が出せず、噂で富山の立山にある機械の廃棄場にその機械が落ちていると聞いて行って見たり。 グラム数が決まらず包装機が作れない為、アイロンでフイルムを接着させ手を火傷したり・・・・。

 資金担当、S信用金庫・田中君、「笠島豆富店はとてつもない理念を持った企業だ」と首覚悟で奔走。 S急便福井店・永善(えいぜん)君、『誰も知らない福井県』から全国区の商品に育てると輸送中の 破損を避けるために、毎夜 “ちょうどのおとうふ”を届ける末端のドライバーに「取扱い注意」のFAXを流し。 包材担当の佐孝さん、 「患者さん、子供達に食べてもらうために事故は絶対許されない!どうしたら圧に耐えられ、尚かつ力のない人にも フイルムが取り易く出来るか?」と考えていたら不眠症に陥り。(昨年、遂に潰瘍が悪化して、胃を半分切ってしまい ました)

 完成するまでに数え切れないドラマがありました。 ひょうきんな天才西君は、「僕たちのプロジェクトXやね。いつか落ち着いたら、本にしなあかんね・・・(福井弁)」 といつも言ってます。 素晴らしい仲間たちの協力により、商品も名前も決まり、平成12年7月初めて福井市の学校給食で採用頂き、 “ちょうどのおとうふ”が出荷された時は、喜ぶというよりはその間のことが沢山あった為、倒れそうな思いでした。 (後で聞けば、生ものと言う事で学校給食では絶対に冷奴は使わないそうです)

 その後も、私が不思議と思うくらい沢山のご縁を頂いた中で、 奇跡的に次男の命を救って頂き、また知的障害(尿道下裂・成長ホルモン分泌不全症・てんかん発作)を持った長男が 「僕、学校卒業したら、 お父さんと“ちょうどのおとうふ” を作って世界へ広げるよ。」と言い出し。

担任の先生曰く、「とてつもなく心も身体も勉強も成長しました。 お父さんの仕事を見ていて、この子の心に何か芽生えたのでしょう。これが本当の教育です。」との事。 その当時、「弟は死んじゃうんじゃないか?」と泣いていたお兄ちゃんは、弟の病気をキッカケに出来た “ちょうどのおとうふ” によって『平成のミラクル男』(学校で言われるそうです。家内とは『平成のフォレストガンプ』と言っていますが) に変わってしまった事もこれまた不思議の一言です。

そんな言葉では言い現せないストーリーの中で作られた “ちょうどのおとうふ” は、『美味しくて便利だ』の一言に支えられ、発売以来この約2年間で26都府県の 病院・福祉施設・学校・自衛隊・産業給食でご利用頂ける商品となりました。(平成13年12月現在)

 2人の障害児を持つ親として何らかの形で社会福祉にお役に立てればと漠然と考えていましたが、 関係頂く皆様から「“ちょうどのおとうふ” の工場を障害のある子供たちが親子共々、リハビリを兼ね働く喜びの持てる場にしたら」と アドバイスを頂きました。

 小さいながらも“ちょうどのおとうふ” の工場が全国に出来れば、将来障害の子供達の就業拡大の場になり、 また自分たちが作った商品をたくさんの人達に喜んで食べて頂ければ、かけがえのない働く(生きる)喜びになっていくものと思います。
  次男の白血病がきっかけで出来た
“ちょうどのおとうふ” がそんな形で、少しでも社会福祉に貢献出来るのでしたら、残りの人生全て賭けても 本望と考えています。

 今後も多くの方々のご賛同を頂き、全国に工場を建設したいと考えていますが、 ある政治家の方からは「今の雇用・失業問題は健常者が対象で、あなたのやろうとしている事は今まで統計にもなかなか上がらなかった世界。 ひとつのインフラ整備に繋がり、たくさんの人たちに喜んでもらえる。何らかの形で協力しますから頑張って下さい」との事。

 また関係する人達からは、工場名は『とうふ業界のSony』と言うことで “Tony”にしようとの事。 〜ご存知ですか?Sonyの創業者故井深氏にも知的障害のお子さんがおられ、障害者のため活躍されていた事〜。

 そのためにも、各施設の栄養士様には、 “ちょうどのおとうふ” の商品自体はもちろんですが、私共の考えております熱い想いも知って頂き、 ご検討頂けましたら幸いと存じます。

  皆様のご支援・ご声援を頂き何処まで出来るか分りませんが、仲間たちと護送船団で頑張って行きたいと思っています。

代表:笠島 進一

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いつまでも皆さんに愛されるお豆腐でありたいと願っています。
患者さん・子供さん・隊員さんを含め皆さんで“ちょうどのおとうふ”の『美味しさ・便利さ』を納得してからご採用頂きたいため、 最初にサンプル(無料)・資料を送らせて頂いています。ご請求いただいても、お電話・ご訪問は一切いたしませんのでご安心下さい。



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